クレームのバカバカしさはさんざん言われているのでいまさらわたしが発することもない。問題はこれに屈してしまったことだ。
テロリストの要求を政府がぜったいにのまないのは、いったん要求をきいてしまったらそれが有効であると知られ、どんどんエスカレートしていくからである。
こういったことは二十年ほど前から懸念されていた。ひとつ本をおすすめしたい。『政治的に正しいおとぎ話』(1995/5/24)だ。古来からの寓話をあらゆる差別などに配慮し書き直したという内容だ。ポリコレなんてもの放置していたらそのうちこんなことになるぞ、という警鐘をならす本である。
なぜポリティカル・コレクトネスでなく『政治的に正しい』とわざわざ訳されているかというと、当時はポリコレという言葉が一般的でなかったからだ(ちなみに訳者はデーブ・スペクター氏)。19年もまえから昨今の惨状は予見されていたわけだ。
著者もまさかここまでにはならんだろう、とジョークとして書いているのだが、実際には予想の斜め上になってしまっている。
いいかげん、こういう流れはとめなければ、どんどんひどくなっていくぞ。
蒲田の話は広告だからまだいい。どのみち広告なんてものは一時的なものだし、こうしてニュースになったおかげでメディアにとりあげられ話題にもなっている。むしろ予算以上の大きい広告効果が得られたかもしれない。
しかし本、漫画、ゲームやその他創作物は発禁なんてことになったら終わりだ。
それで思い出すのは筒井康隆先生の断筆宣言だ。1993年のことである。あの大作家の新作が読めなくなるかもしれない危機があったわけだ。筒井先生がそこまでして世間に訴えたにも関わらず、現状はあまり変わっていない、あるいはひどくなっているように見える。
ゲームも大作化していくなかで、ゲーム内で広告を出そうなんて例もでている。それは結構だが、広告を出すとなるとさらにクレームには敏感にならざるを得ない。スポンサーに迷惑をかけるわけにはいかないからだ
自由に表現するにはインディーズで出すしか無いのか、とも思うが、最近ちょっと残念な事件があった。とあるゲームのキャラ名が変えられるという事件だ。
そのキャラの名前は知能指数が低いことを示すようなものだったのだ。それゆえわかりきったことをあたかも新発見のように発言しパーティーメンバーを困惑させるという、お笑い担当のキャラだった。
しかしそのキャラは勇者パーティーの一行であり、世界を救うほどの活躍するのだ。わたしはその名前に差別的な意味合いは感じられなかった。ところがどこからかのクレームに対応し、そのキャラは空気が読めないやつ的な名前に変更されてしまった。
個人だろうが会社だろうが、創作物を作っているのだから商業的なメリットだけを追うのではなく、表現の矜持を持ってもらいたいものだ。
この意見に文句があるひとはどんどんクレームを入れてくれ。宣伝になるからな。
追記 今後の弊マガジンについて
今回はeスポーツとはなれた内容になってしまい、申し訳なく思う。しかしそろそろeスポーツだけでマガジンを作ることに限界を感じ始めている。このマガジンも大きく内容を変更するかもしれない。
ゲームはもちろんだが、もっと広いジャンルで幅広くやっていこうかと思う。でないと内容がうすすぎる。
そうだなぁ、弱者男性向けマガジン「弱男スクラップ」なんて名前でどうだ?
一緒にやりたい人、募集! わたしはいわれのないクレームには屈しないと約束しよう。